股関節とのなが〜いお付き合い               その後

0歳〜幼児期
    よちよち歩きの頃、”この子チョット歩き方がおかしいんと違うか?”
    と言う事で、近くの診療所で診て貰ったらしい。
    何しろ、田舎の診療所のこと、当時はレントゲンの設備もない(ひょっとすると胸部のレントゲン
    くらいはあったかもしれないが?・・)街の大きな病院から週1回来られる整形外科の先生が、
    チョチョッと足の開き具合を見て”異常はない”といわれたそうです。
    おばあちゃんが、よたよたと歩いてるから、そのまねをしてるんやろか?
    てなことで、その場は収まり・・・   

学童期
    終戦のあくる年、国民学校に上る。運動も特に支障はなく普通に3年間が過ぎた。
    4年生になった年、忘れもしない5月8日、氏神さんのお祭りの日のこと。晴れ着を着せてもらって、
    氏神さんへお参りに行き、神社の石段に、足を一歩かけたとたん!
    足が痛くて一歩も動けなくなってしまったのだ。
    その後のことは覚えていない。どうして家へ帰ったのか?も・・・

    後から聞くと、ずうっと亜脱臼の状態でその年まで来たらしいのだ。
    それが石段に足をかけたとたん、カタンとはずれた、いわゆる股関節脱臼。

    それから一年余りのギブス生活が始まる。
    私の場合、ギブスをはめて、一週間ほど経ってギブスが乾くと、家へ帰って暮らしていた。
    子供で成長期なので一年余りの間、はめっぱなしではなく途中でギブスを新しくやり替えた為、
    完全にギブスが外れるまで、計3回くらい入院した覚えがある。股関節仲間に聞くと、街で育った
    人は、院内学級で学んだそうだけれど、私の場合は経済的な理由なのか、私があまり泣き虫
    だったので、長期の入院はとても無理と親が判断したのかわかりません。

    ギブスが外れたら、私はすぐにでも、立って歩けるものだと(甘い!)漠然と思っていた。
    一年以上過ぎ、やっとギブスが外れた日、すぐにベッドから降りようとした私、ところが!
    ギブスはもう私の足にはないのに、重い!重い!
    ガリガリにやせた細い足はギブスがはまっていた時以上に重かった。まるで石みたい!
    自分の体が石臼になってしまったように感じた。
    
    何しろ終戦後のドサクサの時代、リハビリなど一切なくせいぜいマッサージをするようにと言われ、
    そのまま退院。

    それから赤ちゃんがつかまり立ちから、ひとり立ち、伝い歩き、と進んでいくような過程を経て
    一人歩けるようになって、一年遅れで4年生の2学期から学校に復帰した。
    股関節は曲がらないままで、大きくなり、足のつめを切ること、和式トイレなど、不自由な事は
    いくつもあったし、体育は見学が多くなった。
    遠足、見学旅行など、5年生くらいまでは母や兄がついて来てくれたことを覚えている。

中・高校時代を思い出しても、私はトイレに何回行っただろう?学校にいる時間って結構長いのに、
    よほどのことがない限りトイレに行った覚えがないのだ!よく考えれば小学校も3年生までは
    よく通っていた気がする。
    しゃがむ事が出来なくなってから、トイレをがまんする事を体が覚えてしまったのかもしれない。
    もし、親に言っていたら、学校と相談してくれたかもしれないけど、
    そういうことは親にも言ったことはなかった。

成人後
    高校卒業後、会社勤めも経験し、やがて結婚、出産。
    
    普通の人のように格好よくは歩けなかったけれど、一応普通の生活は出来た。
    勿論、その間も長く歩いたりすると足が痛むのはずう〜っと続いていた。    

    子供がある程度大きくなって近くの工場へパート勤めに出た。    

37歳の夏、夜中に痛みで目がさめるようになり、何年ぶりかで診察を受けて、
    自分の股関節のレントゲンを見て呆然!
    丸い形であるはずの関節が、四角く写っていたのだ。
    それまで、左右の足の太さの違いが気になっていて、細い右足だけで縄跳びを続けたら、
    チョットは肉がつくんじゃないかなどと、甘い事を考えていた私は、非情な現実を目の前に
    突きつけられて完全に打ちのめされた。
    そのあくる日は近所の人とキャンプに行く予定になっていたが、どうしても行く気になれず、
    主人と子供だけで行って貰って、掃除機をかけながら一人で泣いていた。
    目の前にレントゲンの映像がちらついて拭いても拭いても涙が止まらなかった。

    最終的には人工関節を入れることになるだろうけれど、今は出来るだけ足に体重をかけない
    ように、といわれ、パートも辞め、週一回楽しみに行っていた卓球もやめてしまった。

    家でじっとしていると、痛みは治まったが、筋肉はどんどん落ちていった。

そんな時すぐ水泳を始めると良かったのに、と今は思うけれど、
    <ましになると、ちょっとがんばる。又痛む。>という生活を繰り返しているうちに、
    それまで乗っていた自転車にも乗れなくなり、バイクにも、またぐ事ができなくなり、
    最後には隣へ回覧を持っていくのも辛くなった。
    そして、長い間の負担がかかって、頼りにしていた左足まで痛くなってしまった。

平成5年
    まず右足、人工関節置換術を受ける。骨移植が大きかったため、3ヶ月入院  53歳
平成9年
    左足も人工関節置換術、今度は一ヶ月の入院  57歳

そして現在
    色々な問題点はあるものの、お蔭様であの痛みがうその様な快適な生活を送っています。
    手術してくださった先生に感謝、感謝の毎日です。
    二度の入院生活は”同じ痛みを解り合える友人”と言うかけがえのない宝までもたらして
    くれました。そして、足が悪かったからこそ知り合ったプールの仲間、「人間万事塞翁が馬」
    と言いますが、私の人生、足のことも、悪いことばかりではなかったと、今思える様になりました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。m(__)m